父のこと 4

お店を出すにつれ、ある事に気が付いた父。

 

今迄は単純に地元で出店していた訳だが、よくよく考えると、"お客さんの多くが若者"。

 

特に"大学生"だったのだ。

 

当然と言えば当然だ。

何せ「神奈川大学」の最寄駅に当たる土地なのだから。

 

これをキッカケに父は次なるスナックを慶應義塾大学のある"日吉駅"に作る。

 

そしてここで嬉しい誤算があった。

というのは"学生の環境の違い"だ。

 

つまりそれは「慶應の生徒は裕福な人が多い」という点だった。

 

多くの神大生が食事の際に"水"しか飲まないのに対し、慶應の学生はジュース、更には少し高く付く"生搾りフルーツジュース"を出してもそれを普通に飲んでいたという。

 

こうしてこのお店でも成果を上げる事となった。

 

※諸々をスナックと呼んでいるが、当時は喫茶店にも近い雰囲気があったのだと思う

 

 

父は若い時からの成果について、また違った視点の話もしてくれた。ー

 

当時、まだ六角橋には電話線も来ていなかったそう。

しかし一番に電話機を置いたのが自分の店(父曰く)だと言う。

 

とにかく先に買ったもんだから"電電公社"へ「電話線を繋げろ」と直談判をしに行ったとも語っていた。

 

さきに自動車事故の話もしたが、この時分ではマイカーも未だ未だ高嶺の花の中「俺はクラウンに乗っていた」と話している。

 

僕も細やかな時系列などは掴めていないので、色々とエピソードが前後している恐れはあるものの、僕にとっては不思議で興味惹かれるモノばかりだ。

※本当かどうかも度外視で

 

 

他のエピソードで僕が素敵だと感じたのは、未だ家庭に"テレビ"が普及していない時代。

 

プロレスなどの格闘技、確か"力道山"の話をしていた記憶だが、それを近所の焼鳥屋で大賑わいの中、皆で歓声を上げながら酒を飲んで居た話が凄く好き。

 

「今ではバカみたいな話だが、あの頃はテレビを観てドキンドキンと心臓が跳ね上がって興奮した」と言っている。

 

 

話は戻り、この一連の時代感としては1960年代〜1970年代の中頃だと思われる。

 

未だ未だ僕は生まれていない。

 

その後、一つの節目で父が一番「嘆いて恨んでいた」商売へと繋がってゆく。

 

1970年代後半辺りに"神奈川大学"の近くで始めた食堂だか喫茶店

 

 

『ペペルモコ』

このお店が大繁盛した訳だが、そこには様々な時代背景が潜んでいる。

 

 

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