父のこと 1
父は現在83歳、もう直ぐ84歳になる。
正直僕にしてみれば、この年齢の「父」が当たり前なのだが、やはり友人らと親の話題になると考えさせられる場面もある。
現在35歳の自分からすると、周りの親御さんは大体60歳前後だろうか。
母はその位の年齢なので話が合わないという事も無いのだが、父の話をすると、友人の祖父母と照らして話す格好になる。
父は戦争を経験している。
と言っても小学校低学年だろうか。
父の父(僕の祖父)は、横浜の六角橋で映写機を作る仕事をしていたそうだ。
実家に写真が残っている、その裏面には戦前のその頃から考えれば特異な事なのかもしれないが、直筆の筆記体の英語で名が記されている。
その事からもある様に外国人との取引などもあり、結構裕福な家庭だったという。
だが、その祖父は父が10歳頃に病でこの世を去った。
父は3人兄弟の長男。
一家の大黒柱を失う寸前には、当時の日本の世相も重なり、僕の想像の及ばない程の苦労があったのだと思う。
その一つのエピソードに、三男坊を背負い、リアカーで数十キロ先の場所まで「山羊だか羊の血を買いに行った」話をしていた気がする。
その血とは、その頃の祖父の病への薬や栄養補給代わりの品だった訳だ。
※もしかしたら普通に牛乳だったかもしれないのでご了承あれ
しかし祖父は亡くなった。
そしてアメリカからの都市部への空襲の恐れを機に九州へと疎開した。
途中、機銃掃射に出くわし、皆それぞれ肥溜へ飛び込んだという話は祖母からも聞いた。
疎開先の九州では散々いじめられたという。
先ず服装だ。
小綺麗にした身なり。
それが格好の的だったという。
父は野球が大好きだ。
戦争下での日本では英語は禁句。
ワンストライク=ヨシ一本
三振=それまで
アウト=引け
こういった名称が印象的だ。
九州では独り、的当てをしていたという。
祖母が余ったボロ切れで作ってくれた手袋の様なグローブと丸めて象ったボール。
いつも独りで練習していたそうだ。
それもあってか、戦後横浜へ戻ってからの中学校では投手として活躍し、高校も5校から誘われていたという。
中学の同期には、後に広島カープに入団してオールスターにも出場を果たした小坂佳隆(こさかよしたか)選手がおり、大人になっても彼の営んだ鰻屋へ行っていたのが旧友との自慢話なのだろう。
そして推薦で高校へ入学した"ある日の身体検査"でのエピソードは何度も聞かされる事となる。ー
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