生い立ち
僕は、父が48歳の時に23歳年下で宮古島出身の母との間に生を受けた。
4人兄弟で上2人は腹違いの14〜15歳離れた姉と兄、そして実母の長女で2歳上の姉が居る末っ子だ。
自分では自覚がないが、兄弟親族皆、僕が一番父親から可愛がられていたと言う。
だからかどうかはさて置き、僕は父が大好きだった。
厳密にはずっと大好きなのだけど、その分、共に生活をして見続けた晩年の父の歪んだ愛情や執着、恨みが、身近な人達をことごとく傷付ける姿は悲しかった。
今僕は、横浜という街で35年続く風俗店で働いている。
何を隠そう此処が父と母が35年前に始めた家業なのだ。
1980年台半ば、風営法の改正に伴い、新たに風俗店許可などを得るには条件が厳しくなるという時分。
父の友人が都内で始めた「ファッション ヘルス」という業種に目をつけ、同様のお店を開業した。
その大凡ひと月前に僕は生まれた。
勿論、生まれた当時の記憶など殆どないのだが、幼少時の写真に映り込んだ姿やモノが、薄っすらだが記憶を刺激する。
ピンク色で大きくダイヤル式の電話機、昭和の小規模な水商売店を象徴する様なベロアのソファー。
今でもあの香りや空気がふと想い出される。
従業員や母が店を開け、父は横浜のナンパ橋(南幸橋)でビラを配り、閉店後は近所の馴染みの店で一杯飲んで帰る。
僕が小さい頃は、祖母と姉とで夜を過ごした。
特に不自由など感じた事のない生活ではあったが、「やはり親に逢いたい」「顔が見たい」「眠る時に側にいて欲しい」と想いながら過ごしていたのは間違いなかった。
よく聞かされた話だが、「パンパースをリュックに背負って」父の後ろを付いて周っていた。
屋上の小さな遊園地、その下の階の眺めの良いレストランで食べるお子様ランチやクリームソーダ。
そしてよく迷子になり、迷子センターで遊んでくれたデパートのお姉さん。
「まだ離れたくない」とわがままを言って、父と一緒にビラ配りをした日もあった。
あの時、周りのおじさんやお兄さんやお姉さんからは「あんな小さな子に配らせて」の様な嘲笑だったのかも分からない笑い声も、僕にとっては父との楽しい楽しい団欒の笑顔だった。
それが僕の「横浜」と「家業」と「父」との想い出の始まりだ。
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