父のこと 5

『ペペルモコ』

響きが可愛い。

意味は何だか聞いたことがなかったので今度聞くとして…

 

 

このお店を始めたのが1977年〜1978年頃と思われる。

 

というのも1978年に社会現象を巻き起こしたアーケードゲームが発売された事と関連するからだ。

 

スペースインベーダー

 

コイツの噂をいち早く聞き付けて設置した所、爆発的に儲けが出たという。

 

「毎日100円玉の大袋が何個も出来た」

 

 

事実不明だが、それ程に強烈な印象が今でも刻まれているのだろう。

 

 

そもそもこの喫茶店は、"学生達の居場所"として、本来なら帰省などで暇な筈の年末年始もそれなりに人が入っていたらしい。

 

開店して初の年末は「どうせ客は来ないだろうと思って二日酔いで寝てたら朝から起こされて手伝いに行った」程だと父は話す。

 

 

そのお店が『スペースインベーダー』のお陰で連日大盛況、順番待ちで溢れる店となったとよく誇らしげにしていた。

 

当時の営業時間は、10時に開店し、翌朝6時に閉店だったそう。

 

それ程まで学生達の憩いの場として栄えたお店が、その後どうなったかというと…

 

それもやはり時代による影響であった。

 

 

学生運動

 

僕ら30代半ばの世代でも話やTVでしか触れた事のない史実。

 

その熱気とパワーは時代を揺るがす程のモノであったと聞くが、いまいちピンと来ない所もある。

 

 

しかし、それは"神奈川大学"でも確実に巻き起こっていたそうだ。

 

父は事あるごとに「全学連のせいで潰れた」と話す。

 

えっ?どういう感じなの、それ?

 

と、思うのだが、例えばヤンキー漫画の様な"怖いお兄ちゃんがタバコを吸ってメンチを切っている"想像とは、どうやら違いそう。

 

一言で表すのなら「暴徒」なのだとか。

 

 

近くに置いた車はバットなどでバカバカ叩かれたり、窓ガラスを割られたり、そういう連中の乗った車がその辺に停まっては敵対勢力だか、「標的」に目を光らせていた世相なんだとか。

 

勿論、そんな状態では、仮にどうにか営業をしていたとしても、お客さんは寄り付かないどころか、その大半を占める学生達の学び舎の"大学"が休校になるのだから手の打ちようがない。

 

 

こうした日々がどの位続いたかは聞きそびれたが、父はこの話を何度も何度も「全学連がいなければ」と恨んでいた。ー

 

 

 

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父のこと 4

お店を出すにつれ、ある事に気が付いた父。

 

今迄は単純に地元で出店していた訳だが、よくよく考えると、"お客さんの多くが若者"。

 

特に"大学生"だったのだ。

 

当然と言えば当然だ。

何せ「神奈川大学」の最寄駅に当たる土地なのだから。

 

これをキッカケに父は次なるスナックを慶應義塾大学のある"日吉駅"に作る。

 

そしてここで嬉しい誤算があった。

というのは"学生の環境の違い"だ。

 

つまりそれは「慶應の生徒は裕福な人が多い」という点だった。

 

多くの神大生が食事の際に"水"しか飲まないのに対し、慶應の学生はジュース、更には少し高く付く"生搾りフルーツジュース"を出してもそれを普通に飲んでいたという。

 

こうしてこのお店でも成果を上げる事となった。

 

※諸々をスナックと呼んでいるが、当時は喫茶店にも近い雰囲気があったのだと思う

 

 

父は若い時からの成果について、また違った視点の話もしてくれた。ー

 

当時、まだ六角橋には電話線も来ていなかったそう。

しかし一番に電話機を置いたのが自分の店(父曰く)だと言う。

 

とにかく先に買ったもんだから"電電公社"へ「電話線を繋げろ」と直談判をしに行ったとも語っていた。

 

さきに自動車事故の話もしたが、この時分ではマイカーも未だ未だ高嶺の花の中「俺はクラウンに乗っていた」と話している。

 

僕も細やかな時系列などは掴めていないので、色々とエピソードが前後している恐れはあるものの、僕にとっては不思議で興味惹かれるモノばかりだ。

※本当かどうかも度外視で

 

 

他のエピソードで僕が素敵だと感じたのは、未だ家庭に"テレビ"が普及していない時代。

 

プロレスなどの格闘技、確か"力道山"の話をしていた記憶だが、それを近所の焼鳥屋で大賑わいの中、皆で歓声を上げながら酒を飲んで居た話が凄く好き。

 

「今ではバカみたいな話だが、あの頃はテレビを観てドキンドキンと心臓が跳ね上がって興奮した」と言っている。

 

 

話は戻り、この一連の時代感としては1960年代〜1970年代の中頃だと思われる。

 

未だ未だ僕は生まれていない。

 

その後、一つの節目で父が一番「嘆いて恨んでいた」商売へと繋がってゆく。

 

1970年代後半辺りに"神奈川大学"の近くで始めた食堂だか喫茶店

 

 

『ペペルモコ』

このお店が大繁盛した訳だが、そこには様々な時代背景が潜んでいる。

 

 

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父のこと 3

父から聞いた仕事の話といえばバーテンダー(というよりボーイ?)をしていた時の話。

 

いつも牛乳が店に届けられていたが、"牛乳はお肌に良い"という話を聞いた父は、いつも自分が店に来るのが一番だったのを良い事に「その牛乳で顔を洗っていたから俺は肌が綺麗だった」と言っている。

 

他にはよく聞く話だが、店のウイスキーは殆ど残り物を入れ替え新たに封をして新品に見せたモノというやつ。

 

その後の父は兎に角"女遊び"をしていたと語る。

 

その時の方法を僕によく教えようとしてくれていた。

 

「いいか、隆寛(僕)、先ずは時計を見るんだ。大体良い家の女は高い時計をしている。しかもそういう子は世間知らずだから押しに弱い。」と。

 

そして酒を飲ませたりしながら、途中で店主に電話を貸してくれと言うのだと。

その時に仲間や親と話しているフリをして「ベンツ(BMWジャガーだったり)で迎えに来てくれ」とデカい声で話すのだそうだ。

 

因みにそれは丁度"国鉄の時間が終わる頃だ"と教わったが、若い自分へはJRと訳して教えて欲しかった。

 

他にも女性がトイレに立ったらお酒にタバコの葉を混ぜるとか、本当にクソみたいな話を沢山聞かされ、勿論僕はどれも実践した事はないし、そもそも色々と"時代や価値観"が違いすぎるのだ。

 

そうして男女の中になった後は、その女性らの収入でヒモとなる。

 

アップグレードされてゆくスーツや時計、それがまた次のターゲットを惑わす武器へと変わる。

 

けど訴えられたり、親や友人や警察に言われるのでは?となりそうだが、やはりこの時代は「恥」という概念が強く、中々そういった勇気を出せずに"忍耐"と"本物か分からない愛情"に覚悟を持ってしまう女性も少なくなかったそうだ。

 

こうして仲間らと遊ぶお金を手にしていった父は、当時付き合っていた女性と初めて商売を始めたらしい。

 

それは六角橋での小さな食堂だったそう。

当時まだ六角橋には殆ど飲食店もなく、それなりに繁盛したんだとか。

 

祖母や兄弟なども働かせ、そしてその後このお店を元手に商売を広げていった。

 

神奈川大学のそばでは父の弟などに任せた「焼鳥屋」を。

 

更に六角橋で火事があり、その焼跡ら辺を歩いていた時、その近所に繁盛店が出来ていたらしく、それを見た弟だか友人と「この火事の跡地を安く借りて店を出すぞ」と、そこそこ広めのスナックを出したそうだ。

 

そしてここもまた当たった。

 

父は店へ顔を出す事もあったそうだが、殆どは家族か愛人の様な女性達に店を任せ、遊んでいたという。

 

そんな中で父は"ある事に"気が付いたそうな。ー

 

 

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父のこと 2

父が高校生になったある日。

身体検査があったそうだ。

 

父曰く、その日は寝坊した、と。

慌てて学校へ駆けて向かい、到着はしたものの朝から身体検査がありそのまま並ぶ格好に。

 

そして診察に訪れていた医師が聴診器をあてがいこう言ったそうだ。

 

「んっ?心臓が変な音するなあ。君は何部だ?運動はやめなさい。」

 

その言葉をキッカケに野球部を休む事になり、やがて退部したのだとか。

 

 

この話をする度に父は「あのヤブ医者は俺が走って来たって言ってるのに聴診器を適当に胸に当てただけで余計な事を言いやがった」と、「あの医者のせいで俺はグレた」とよく話していた。

 

 

ただ厳密にはそれをキッカケにやる気をなくしてクラスの不良とつるむ様になり高校を辞めたと述べている。

 

 

そしてその数年後に"8000人程の応募の中から50名だけが受かったという日産自動車への入社"話もよく自慢として聞かされた。

 

 

祖母から勧められて面接を受けたが、「受かる訳がない」と思っていた父は「野球がやりたいだけ」等とおちゃらけ続け、上記の倍率かは不明だが、しかし入りたい者も沢山居たであろう大企業に入社を果たす。

 

のだが、こちらは野球部の先輩に腹を立てて砂をかけて目潰ししてから殴りかかったのをキッカケに辞めさせられたそうな。

 

その時に祖母が上司や偉いさんに涙ながらに土下座をして謝っていたのを父は「婆さんは本当に凄い役者だった」と常々口にしている。

 

 

それからの父は、いわゆるチンピラとかヤクザ者の類となる。

 

兄弟や祖母が懸命に働いて買った家具などを留守の間に忍び込んで持ち去り売っぱらうとか。

 

 

本当かどうか僕も話半分で聞いてはいるが、事あるごとに「俺は前科○犯だ」と言っては嬉しそうにしていた。

 

罪状や当時の警察捜査の具合が想像出来ないが、若い頃は仲間と名古屋や大阪などを転々としながら逃げ回っていたそうな。

 

 

だがある時、男女4人で飲酒して車で帰る途中に大事故を起こしたという。

 

そして1人の女性は顔に深い傷を負ったのを病み入院先から飛び降りたという話を聞かされる。

 

事故で気が付いた時に見た女性の惨状、そして「俺は悪運が強い」と語る話の数々は未だ未だ尽きないし、嘘か本当かはさて置き、未でもこうして思い出される程のエピソードとなっている。ー

 

 

 

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父のこと 1

父は現在83歳、もう直ぐ84歳になる。

 

正直僕にしてみれば、この年齢の「父」が当たり前なのだが、やはり友人らと親の話題になると考えさせられる場面もある。

 

現在35歳の自分からすると、周りの親御さんは大体60歳前後だろうか。

 

母はその位の年齢なので話が合わないという事も無いのだが、父の話をすると、友人の祖父母と照らして話す格好になる。

 

 

父は戦争を経験している。

と言っても小学校低学年だろうか。

 

父の父(僕の祖父)は、横浜の六角橋で映写機を作る仕事をしていたそうだ。

 

実家に写真が残っている、その裏面には戦前のその頃から考えれば特異な事なのかもしれないが、直筆の筆記体の英語で名が記されている。

 

その事からもある様に外国人との取引などもあり、結構裕福な家庭だったという。

 

だが、その祖父は父が10歳頃に病でこの世を去った。

 

父は3人兄弟の長男。

一家の大黒柱を失う寸前には、当時の日本の世相も重なり、僕の想像の及ばない程の苦労があったのだと思う。

 

その一つのエピソードに、三男坊を背負い、リアカーで数十キロ先の場所まで「山羊だか羊の血を買いに行った」話をしていた気がする。

 

その血とは、その頃の祖父の病への薬や栄養補給代わりの品だった訳だ。

 

※もしかしたら普通に牛乳だったかもしれないのでご了承あれ

 

 

しかし祖父は亡くなった。

そしてアメリカからの都市部への空襲の恐れを機に九州へと疎開した。

 

途中、機銃掃射に出くわし、皆それぞれ肥溜へ飛び込んだという話は祖母からも聞いた。

 

疎開先の九州では散々いじめられたという。

先ず服装だ。

小綺麗にした身なり。

それが格好の的だったという。

 

 

父は野球が大好きだ。

戦争下での日本では英語は禁句。

 

ワンストライク=ヨシ一本

三振=それまで
アウト=引け

 

こういった名称が印象的だ。

 

 

九州では独り、的当てをしていたという。

祖母が余ったボロ切れで作ってくれた手袋の様なグローブと丸めて象ったボール。

 

いつも独りで練習していたそうだ。

 

それもあってか、戦後横浜へ戻ってからの中学校では投手として活躍し、高校も5校から誘われていたという。

 

中学の同期には、後に広島カープに入団してオールスターにも出場を果たした小坂佳隆(こさかよしたか)選手がおり、大人になっても彼の営んだ鰻屋へ行っていたのが旧友との自慢話なのだろう。

 

 

そして推薦で高校へ入学した"ある日の身体検査"でのエピソードは何度も聞かされる事となる。ー

 

 

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馴れ初め

最近母から聞いた話。

所謂、馴れ初めだ。

 

母が勤めていたクラブに父は何度か飲みに来たそうだ。

 

毎回指名を受けていたそうだが、席についても殆ど会話を交わす事なく「爪の垢を弄る」かの様な態度に気味の悪さを覚え、来店の度に店長に「付きたくない」と言っていたという。

 

それが3〜4度目の日だったという。

父から「良い寿司屋を知ってるから行こう」とアフターの誘いを受けたそう。

 

内心「行きたくない」とは思ったが、周りの声や仕事という面、そして"良い寿司屋"に釣られて渋々父と2人でアフターへ。

 

すると、そこは高級店というよりはこじんまりとした大衆的なお寿司屋さんだった。

 

だけど想像と違ったらしい。

 

それはお寿司の質もだったかもしれないが、それよりも"父の態度"がだったという。

 

クラブ店内では「気味の悪い」無口な男だった父だが、その店ではまるで別人。

 

母が言うには「芸人さながら」に身振り手振りと口八丁で"腹を抱えるほど笑った"そうだ。

 

 

僕の中の父も「ひょうきんでお喋り」で、いつも「周りには笑顔の溢れた」人だった。ー

 

 

その後、父と母は結婚した訳だが、出逢った当初の父は30代そこそこに見えたそうだ。

 

でも実際は40代半ばのバツイチ。

母の母(僕のおばぁ)の3歳下。

 

色々と考えさせられたかもしれないが、2人は結ばれた。

 

母の出身地の宮古島からは兄弟や親戚、沢山の身内や仲間が上京して関東へ働きに来ていた。

 

父は「アニキ」「お兄さん」と呼ばれ、盆暮れ正月、纏まった休みの度に我が家に皆が集っていた気さえする。

 

 

余談ではあるが、馴れ初めの話、後に母に「あれはワザととった態度で作戦だ」と言ったそうだ。

 

それが事実か定かではないが、僕はそういう「楽しさとダサさ」のある男が大好きだ。

 

 

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生い立ち

僕は、父が48歳の時に23歳年下で宮古島出身の母との間に生を受けた。

 

4人兄弟で上2人は腹違いの14〜15歳離れた姉と兄、そして実母の長女で2歳上の姉が居る末っ子だ。

 

自分では自覚がないが、兄弟親族皆、僕が一番父親から可愛がられていたと言う。

 

だからかどうかはさて置き、僕は父が大好きだった。

 

厳密にはずっと大好きなのだけど、その分、共に生活をして見続けた晩年の父の歪んだ愛情や執着、恨みが、身近な人達をことごとく傷付ける姿は悲しかった。

 

 

今僕は、横浜という街で35年続く風俗店で働いている。

 

何を隠そう此処が父と母が35年前に始めた家業なのだ。

 

1980年台半ば、風営法の改正に伴い、新たに風俗店許可などを得るには条件が厳しくなるという時分。

 

父の友人が都内で始めた「ファッション ヘルス」という業種に目をつけ、同様のお店を開業した。

 

その大凡ひと月前に僕は生まれた。

 

勿論、生まれた当時の記憶など殆どないのだが、幼少時の写真に映り込んだ姿やモノが、薄っすらだが記憶を刺激する。

 

ピンク色で大きくダイヤル式の電話機、昭和の小規模な水商売店を象徴する様なベロアのソファー。

 

今でもあの香りや空気がふと想い出される。

 

従業員や母が店を開け、父は横浜のナンパ橋(南幸橋)でビラを配り、閉店後は近所の馴染みの店で一杯飲んで帰る。

 

僕が小さい頃は、祖母と姉とで夜を過ごした。

 

 

特に不自由など感じた事のない生活ではあったが、「やはり親に逢いたい」「顔が見たい」「眠る時に側にいて欲しい」と想いながら過ごしていたのは間違いなかった。

 

開店前に父と高島屋三越、岡田屋へ行った記憶もある。

 

よく聞かされた話だが、「パンパースをリュックに背負って」父の後ろを付いて周っていた。

 

屋上の小さな遊園地、その下の階の眺めの良いレストランで食べるお子様ランチやクリームソーダ

 

そしてよく迷子になり、迷子センターで遊んでくれたデパートのお姉さん。

 

「まだ離れたくない」とわがままを言って、父と一緒にビラ配りをした日もあった。

 

あの時、周りのおじさんやお兄さんやお姉さんからは「あんな小さな子に配らせて」の様な嘲笑だったのかも分からない笑い声も、僕にとっては父との楽しい楽しい団欒の笑顔だった。

 

それが僕の「横浜」と「家業」と「父」との想い出の始まりだ。

 

 

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